自己紹介

 

すくすくと育った幼少期

 

 

 

私は、岡山県、赤磐市に在住しております。そこで生まれ育ちました。小さいころから、よく太っていて、少し、ボーっとした子どもでした。祖父や祖母、父や母、近所の人々に、愛情をたくさんいただいて、すくすく育った幼少期でした。

 

 

 

 

 

小学校で、中学受験に挑戦

 

 

 

すくすく育った私は、そのまま地元の小学校に入学しました。勉強は、中の中、運動はたいそう苦手な私でした。

 

 

 

あまり、人と話ができず、忘れ物も多く、宿題が最後までできない。という問題を抱えていました。友達も少なく、どちらかというと、いじられタイプでした。そんな当時の私でした。

 

 

 

6年生の時、両親から、「貴子、よその中学へ行ってみんか?」と言われました。何の事だか、わかりませんでしたが、両親の言葉に、すぐ「はい!」と答えた私でした。

 

 

 

そして次の日から、家での猛勉強が始まりました。父が主に、受験勉強を教えてくれました。しかし、私には、ちんぷんかんぷん、まるで難しく、全く分からない状態でした。しかし、父や母の期待に、応えたいし、もう後には引けない。という思いで、毎晩遅くまで、頑張ったのを覚えています。

 

 

 

国語は、超長い文章ばかりで、混乱し、算数といえば、利益や仕入れ、食塩水、旅人算、などわけのわからないものばかり。しかし、両親の期待と熱に逆らえず、わからないの一言も言えず、日々12時近くまで、勉強していた、小学生の私でした。

 

 

 

そして、受験の日を迎えました。真っ青な顔をした子供たちばかりが目につきました。「みんな寝てないんだな。すごくできそうな人たちばかり。」そう思いながら、圧倒されながらの受験でした。

 

 

 

1週間後、結果発表の日がやってきました。結果は、不合格。結果を聞いた途端、涙があふれました。

 

 

 

「あれだけ、寝る間を惜しんでやったのに。」

 

 

 

私はすぐ、布団にくるまり、泣きながら、泣きつくしました。父も、学校の合格発表の掲示板を見に行っていたのですが、そこから帰ってきました。

 

 

 

私がなぜ辛かったのか?それは、他校を同じように中学受験して、すでに合格してルンルンされていた同級生がおられたからです。

 

 

 

「私も学校は違えど、合格せんといけん!」

 

 

 

そう思って頑張って、勉強してきた私でしたが、結果は、不合格。

 

 

 

もう、敗北者の烙印を、小学生の時点で押されてしまった。その感覚を、小6で味わいました。

 

 

 

いつも話しかけてくれていたクラスメイトも、私が暗いからか、一人ずつ減っていき、一人になることが多くなった、最後の小学校生活、卒業式でした。

 

 

 

 

 

 

 

中学校での高校受験

 

 

 

中学校受験に失敗した私は、「高校受験だけは、何としても、成功したい!!」。その志ひとつで、地元の公立中学へ入学しました。そして、がり勉の道、まっしぐらを進んだんです。

 

 

 

最初の中学1年の時は、ブラスバンド部へ所属しておりました。しかし、塾の勉強に集中し、塾での順位が上位に上がると、ますます勉強への意欲が高まりました。そして、結果的に、私は、ブラスバンド部での活動の意義がわからなくなってきてしまいました。

 

 

 

「私は、今度こそ、受かるんだ!」

 

「合格。それ以外のことは排除して、できるだけ勉強する時間を作っていかんと、また落ちて辛い目に合う。」

 

 

 

そう思い、中学2年の時、ブラスバンド部を退部しました。当時の公立中学では、生徒全員が、いずれかの部に属していなければならない。そういう時代でした。しかし、そのルールを私は、平然と破りました。

 

 

 

「先生、私が落ちたら、助けてくれるの?」

 

 

 

その一言を先生にいったこと、今でも覚えています。

 

 

 

落ちたら誰も助けてくれない!

 

 

 

勉強の結果による受験合格で、人生の明暗が決まる!

 

 

 

そう真剣に、思っていた中学時代でした。

 

 

 

そんな私には、学校の友達はひとりもおらず、常に一人の中学校3年生を過ごしました。正直言って、それは、私には、とてもつらく、心にこたえました。

 

 

 

しかし、合格のためには、それは仕方のないこと。合格すれば、皆変わるに違いない!

 

 

 

そう思って、日々、学校生活を一人で過ごしました。

 

 

 

受験当日がやってきました。担任の先生が応援に来てくださいました。その応援を胸に頑張った私でした。結果は、合格。

 

 

 

天にも昇る思いを、体験しました。

 

 

 

やってきてよかった!わたしはあってた!合格したんだ!

 

 

 

との思いいっぱい、喜びいっぱいで、中学を卒業しました。

 

 

 

 

 

 

 

集団無視され不登校の高校時代

 

 

 

高校に入学し、新たな友達もでき、順風満帆な高校生活を半年くらい過ごしました。

 

 

 

私は、いつのまにか、調子に乗っていました。そして、つい、仲間の悪口を、ちがう仲間にいってしまったのです。それは、私のついた、嫉妬からなるウソでした。そのことが、仲間にわかり、状況は、一夜のうちに一変しました。

 

 

 

「なかにしさんと一緒にいると、友達がいなくなるよ。」という声をする人々が、増えてきて、とうとう、1日のうちに、私と話をする人は、1人たりともいなくなってしまったのです。

 

 

 

そして、卒業するまでの、2年半、毎日、地獄の日々が始まりました。だれも、私に話をしてくれる人はいません。「最低!」とすれ違う時、トイレに入っているときに、私に怒鳴ってくる人もいました。

 

 

 

先生に相談しました。「私、反省してるんです。なんとかしてもらえないでしょうか。」

 

 

 

先生はおっしゃいました。「みんなに言ってみますが、なかにし、おまえが悪いんだよ。お前が原因だということを忘れるな。」とはっきり言われました。

 

 

 

私は、辛くなり、徐々に、学校から足が遠のき、次第に不登校となりました。

 

 

 

勉強したい!でも学校には行けない!

 

 

 

そんなまんじりと、じりじりした、不登校生活が続きました。両親からは、毎日、「学校へ行きなさい!」「あんたが、調子に乗って、あることないことしゃべるからこんなことになるんだよ!」と言われ、さらに私は、自分の居場所を失っていきました。

 

 

 

たまに学校へ、勇気を出していくこともありました。誰も話してくれません。

 

 

 

だれも、一緒に、昼食を食べてくれる人、いない。どうしよう?

 

 

 

そう思った私は、いつも、体育館まで足を運び、2階の暗幕の中で、人に、わからないように、ひっそり、座って、音の立てないよう、泣きながら、お弁当を広げて、食べていました。

 

 

 

そんな私でしたので、2年生の修学旅行へは、私は行きませんでした。修学旅行の日は、学校で、ひとり、自習したのを覚えています。

 

 

 

高校3年になり、地元の岡山市内に、大手の予備校ができました。私は、学校へ行くより、少しずつ、その予備校の自習室で、勉強するようになりました。

 

 

 

しかし、学校の授業をろくに受けていなかったため、基本がわからない。ちんぷんかんぷんでした。何とか覚えるので点数の取れる科目、生物などは覚えて、頑張りました。

 

 

 

ある日、久々に学校へ行きました。数学の先生に質問をしました。丁寧に教えてくださいました。

 

 

 

「ありがとう先生。」と言って帰ろうとすると、

 

 

 

「なかにし、浪人しても、また質問にきなさいね。」と言われました。

 

 

 

浪人?私、まだ受験すらしてないんだけど、どういう意味?

 

 

 

立ち尽くしていると、ちがう先生が、「○○先生、ボーナスアップ、狙ってますね。」と笑いながら、その先生に話しかけていました。

 

 

 

私の中で、何かが壊れました。そしてねじ曲がった、間違った、やる気が起こりました。復讐のような怒りのような、気持ちでした。

 

 

 

「よし、数学の先生になって、この先生を見返してやろう!先生の革命を起こしてやる!」

 

 

 

 次の日から、予備校へ毎日通い、自習室で勉強しました。それが、センター試験、1か月前でした。わからないところは、予備校の先生の待機されておられるお部屋にお伺いして、質問しながら、毎日、予備校を行き来していた私でした。

 

 

 

 そして、受験日を迎えました。希望は、ある国立大学の教育学部、数学科です。センター試験を受けました。そして、1か月後、2次試験を受けに、その大学へ行きました。試験を受け、手ごたえはゼロに近かった。

 

 

 

「あまりできなかった。難しかった。」「これは、だめかもしれない。」

 

 

 

そう思いながら、大学を後にしました。そして、1週間後、私は、大学からの通知を受け取りました。結果は、合格でした。

 

 

 

 

 

 

 

大学へ、そしてさらに大学院へ

 

 

 

大学に入った私は、友人に恵まれ、音楽のサークルに入り、楽しい大学生活を送っていました。

 

 

 

友人にも恵まれ、大変幸せでした。

 

 

 

大学4年生の時、教員採用試験を受験しました。岡山県を受けました。面接試験の際、私はうっかりして、スリッパを持っていくのを忘れ、服装も、ピンクのフリルの服で、面接を受けました。今から、思うと、大変世間知らずな私でした。

 

 

 

結果は、もちろん不採用。

 

 

 

なぜ?どうして?

 

 

 

私には、わかりませんでした。勉強をもっとしないといけんのじゃなあ。それだけしか思い当たる節がなかった私でした。

 

 

 

不採用だった私は、地元の大学の大学院を受験しました。結果は合格。そして入学しました。

 

 

 

2年間の修士課程の研究生活は、頭脳明晰で、優秀な仲間に囲まれ、楽しい2年間でした。あっという間でした。そして、私は、いつの間にか、「研究者になって、楽しく生きる人生を過ごしたい。」と思うようになっていったのです。

 

 

 

 

 

さらに博士号を目指して、他県の大学院へ

 

 

 

地元の大学院を修了した後、私は、近県の大学院の研究生として、1年間、勉強した後、その大学院の、博士課程前期に入学することができました。さらに、すごくできられる頭脳明晰な仲間や先輩が、温かく私を迎えてくださいました。

 

 

 

頭もよく、性格もとても穏やかで優しい仲間に恵まれ、私は、大変幸せな毎日を過ごしていました。

 

 

 

しかし、いつの日からか、いつもの負けん気がちょこちょこ、頭を出し始めました。それが次第にエスカレートし、私は、自分に大変ストイックに、そして、研究にもストイックになっていきました。

 

 

 

寝るか、食べるか、研究するか、常にこの3つのうちのいずれかをしている生活となりました。そこまで、いつの間にか、自分を追い込んでいました。

 

 

 

 

 

コタツの中に座椅子を敷いて、パソコンをコタツの上において、その横には洋書と辞書を、常において、ご飯を食べつつ、洋書や文献を読んだり、その和訳をパソコンで打ったりするのが、常となる生活でした。疲れたら、座椅子のリクライニングを倒して、仮眠。そして目が覚めたら、起きて、また、洋書と辞書をにらめっこ。そしてノートに書く。それの繰り返しでした。

 

 

 

そして、頑張りすぎたのでしょうか。私は、ついに、眠ることができなくなりました。

 

 

 

その生活がいつまで続いたのか、何か月続いたのか、私には、今でもわかりません。

 

 

 

食欲もなく大変痩せており、病院に入院することになりました。

 

 

 

 

 

 

 

入院生活

 

 

 

心神耗弱の中、病院に私はいました。

 

 

 

あまり、当時の記憶はありません。大学院をやめてしまったというショックがよっぽど大きかったのだとおもいます。

 

 

 

また、コーヒーやおやつが買えないつらさ、お金のない辛さを、ここで、私は、はじめて、味わいました。

 

 

 

そして、先生が心配される中、私は、退院しました。

 

 

 

 

 

 

 

妹が、「お姉ちゃん、退院おめでとう!」と花束を持って、病院の外で渡してくれたのを、今でも覚えています。泣けました。家族の温かさを初めて知った、瞬間でした。

 

 

 

「大学院もやめ、研究者の道は、閉ざされてしまった。私には、もう、何もない。何もないんだ。」

 

 

 

そのつらさだけがこみあげてきて、暇さえあれば、泣いていた、退院後の私でした。

 

 

 

そんなある日のことでした。

 

 

 

 

 

 

 

医師から、「中西さん、デイケアというのがあります。かよってみられますか。楽しいよ。」と勧められ、病院のデイケアに通うことになりました。毎日、2時間半、バスに揺られて、通いました。

 

 

 

「疲れたら、休んでいいよ。」と婦長さんが、常に、私に言ってくださいました。デイケアの仲間にも恵まれ、それなりに充実した日々を過ごしました。

 

 

 

そして、小さい中に、細々した暖かい一筋の光が、私にあるなあ。という感覚を私は、徐々に、実感するようになりなした。そして、先生の勧めで、無事に私は、デイケアを卒業しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

就職、リストラ、そして結婚

 

 

 

デイケアを卒業した私は、就職活動をするようになりました。近くのハローワークへ通い、自分に合う仕事を探していました。

 

 

 

ある時、塾講師募集の文字が目に入ってきました。「これだ!」と思いました。そして、面接を受けに行き、採用されることになりました。毎日、塾講師として働くことになりました。

 

 

 

しかし、入院生活を続け、その後も寝るばかりのデイケア生活をしていた私にとって、8時間、皆と一緒に、お金を得るために働く。ということは、大変きつい仕事でした。

 

 

 

帰ってくると、もう、くたくた。そのうち、職場へ行くこと、そして生徒の顔を見て教えることが、辛くなり、苦痛になりました。

 

 

 

辛いなあ。と思っていた時、結婚することになりました。

 

 

 

しかし、3年半後、いろいろな諸事情で、離婚に至りました。

 

 

 

結局、私は、実家に戻り、家業の手伝いをすることになりました。

 

 

 

 

 

 

 

母の友人、平島さんとの出会いから、スピリチャルな世界へ

 

 

 

離婚後、手伝いをしながら、毎日、やりがい、生きがいのない生活を送っていました。

 

 

 

一日、2時間ほど活動し、暇さえあれば泣いている。

 

 

 

そんな生活を繰り返す日々でした。

 

 

 

そんなある日、母の友人の平島さんが、やってきて私に言いました。

 

 

 

「貴子ちゃん、いい先生が、九州から来られるけん、みてもらったら?すごいから、こられえ」

 

 

 

その一言が、私をスピリチャルな世界へと踏み込ませる一言でした。

 

 

 

暇だったので、私は、その九州の先生にみてもらいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハンドパワーをつかうことで、人を癒せる。とおっしゃるその先生は、私を見て、手当てをしてくださった後、私の目をじっと見て、

 

 

 

「ハンドパワーをとりなさい。そうすれば、病気は治るよ。」

 

 

 

と言ってくださいました。それを信じ、私は、九州まで足を運んで、ハンドパワーをもらい、セミナーを受けました。そして、毎週、ハンドパワーの治療を受けに、広島へ行っていました。

 

 

 

「なかにしさん、ハンドパワーを使うことで、まだまだよくなるよ。いろんな人にハンドパワーをしてあげて、この力を使ってください。」

 

 

 

ある日、先生から、そういわれました。私は、家族、親せきに、ハンドパワーをするようになりました。調子が少し、よくなるのが感じられました。

 

 

 

そして、徐々に、近所の人にもしてあげるようになり、気づくと、自ら進んで、スーパーカブに乗って、いろいろな地域の方々の家を、ピンポンして、ハンドパワーしてあげていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の体は、不思議と、大変良くなっていきました。薬も、どんどん減らしていきました。とうとう、ある日、私は、あるスーパーの前で、ハンドパワーをすることができるように、お願いして、オーナーさんに了承をもらって、通りゆく人々に声をかけて、ハンドパワーをしてあげていました。すごくいい調子に人生が明るくなっていっていました。

 

 

 

しかし、通院をするのをやめて体調が悪くなってしまいました。

 

 

 

そこで、もう病院は自分の独断で行かないのはやめよう。それだけはすまい!と実感し、ハンドパワーの会も同時に退会しました。

 

 

 

 

 

 

 

しばらくしてまた、母の友人の平島さんが、来て、言われました。

 

 

 

「貴子ちゃん、いい本出たよ。ぜったい読んでみて。簡単にできるから。」

 

 

 

そういわれて、にっこりされ、一冊の本を残して、帰って行かれました。

 

 

 

「誰もが魔法使いになれるホオポノポノ」という薄い冊子の本でした。

 

 

 

1ページだけ眺めるつもりで読みました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とても感激して、

 

 

 

「今からしてみよう。ありがとう、ごめんなさい、ゆるしてください、あいしてます。」

 

 

 

言ってみました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心と体が、スッと、浄化される感じを体験しました。

 

 

 

その時から、私は、常に、その4つの言葉を唱えるようになりました。ヒューレン博士が、神戸に来られる。ということで、ビジネスクラスを泊りがけで、受講もしました。KR女史の講演会にも、大阪、神戸、高知へと足を運びました。

 

 

 

不思議なんですがいつの間にか、私は、体が楽になりました。家業の手伝いにも力が入り、商売における勉強会にも、熱心に参加できるようになりました。人脈が広がり、いろんな職種の社長さんともお話しする機会も増え、私は、ますます元気になり、

 

 

 

「私は、この家業を継いで、頑張っていこう!」

 

 

 

そう思い、明るい未来を思い描くようになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シータヒーリングとの出会い、そして、薬学部へ

 

 

 

しかし、そんな私にも、体調に不安がありました。

 

 

 

夕方になると、だるさが続き食欲のない状態が続いていました。

 

 

 

「お薬はないんでしょうか?」

 

 

 

医師に相談しました。

 

 

 

「中西さん、現代の医療では、それを治す薬はまだ開発されていないんです。」

 

 

 

お医者様が、申し訳なさそうに、辛そうに、おっしゃってくださったのを覚えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は、

 

 

 

 

 

 

 

あきらめよう。ここまでよくなったんだから、それに感謝しないと。欲を言わずに、それなりに元気なんだから。

 

 

 

 

 

 

 

そう自分に言い聞かせました。

 

 

 

そんな時、また、母の友人の平島さんが、私の目の前に登場されました。

 

 

 

「貴子ちゃん、すごい本見つけたよ。読んでみて。ぜったいすごいから!!」

 

 

 

厚い本でした。シータヒーリングと書かれてありました。

 

 

 

読む気が起こりませんでした。そのまま、1週間、部屋に放置し、その後、平島さんに、お礼を言って、お返ししました。

 

 

 

そうこうしていると、平島さんが、ほほを紅潮させて、やってこられました。

 

 

 

「貴子ちゃん、シータヒーリングのセミナー、受けよう!東京から先生が来てくれることになったんよ。ええ?」

 

 

 

「いくらですか?」

 

 

 

「45000円。」

 

 

 

「わかりました。」

 

 

 

ほんの付き合い。そのつもりでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、2012年、6月に東京から、石坂典子先生が基礎DNAセミナーを、教えに、来られました。3日間のセミナーでしたが、長かった!先生のおっしゃられること、ちんぷんかんぷん。なにもかも、わからずじまいでした。

 

 

 

そして、さらに、その年の11月、また、石坂先生が、応用セミナーを教えに、来てくださいました。全く、シータヒーリングを日常していなかった自分でしたが、少し、ワークで、リーディングができました。また、自分についているウェイワードをシータ仲間に除霊してもらって、すっきりする体験もしました。

 

 

 

その時、すでに、私は、家業を継ぎ、その家業を発展させるため、地元の大学の薬学部を受験し、合格。2013年の4月から、入学することが決まっていました。

 

 

 

これで、シータヒーリングは、最後だな。この東京の先生とお会いすることももうないだろう。

 

 

 

そう思って、受講した、応用セミナーでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

薬学部での限界と退学、そして、シータヒーラーへ

 

 

 

2013年、4月、地元の大学の薬学部に入学し、私の、学生生活がまた始まりました。友人も数名できました。ともに励ましあって、勉強をする友もでき、私は、大変充実した、大学生活を送っていました。授業も難しかったけど、自分なりに、学べることへの誇りと喜びを持ちながら、毎日、通い、受講していました。

 

 

 

ただし、一つの問題、いやな授業が私にはありました。

 

 

 

それは実習授業でした。

 

 

 

過度の緊張で手が震え、その震えが止まらない。

 

 

 

ピペットは震えて、液が漏れる。薬包紙も震えて、上の薬が床に飛び散る。

 

 

 

そんなことを繰り返し、恥ずかしく、穴があったら入ってしまいたい思いに、毎回、実験のたびになっていた私でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思い切って、ある日、実験道具を教授にお願いして、持ち帰り、毎朝、20分間、砂糖や、小麦粉を、薬に見立てて、練習しました。その時は、いつも大丈夫。手は震えることはありません。

 

 

 

しかし、本番になると、いつも失敗をやらかしていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜだろう?

 

 

 

毎日、辛い実験授業であること、なぜなのかを、医師に聞きました。

 

 

 

「緊張がひどいことは否定できませんね。」

 

 

 

と医師は、言われました。

 

 

 

 

 

 

 

「あっ、そうか。それはどうしても治らないんだね。」とその時気づきました。

 

 

 

次の日、私は、担任の先生に、退学の旨を伝え、学校をやめました。

 

 

 

悔いは全くありませんでした。

 

 

 

やれるとこまでやったんだ!

 

 

 

その思いが、自分を納得させていました。

 

 

 

 

 

 

 

私は、薬学部をやめる以前から、いや、実をいうと、薬学部に入学する前から、

 

 

 

「シータヒーラーでやっていきたい。大変元気になった私を見ていただき、岡山に、シータヒーリングを広めたい。その素晴らしさを、伝えていきたい!」

 

 

 

という気持ちが、自分の中にあったことに、すでに気づいていました。

 

 

 

よし、シータヒーラーでやっていこう!

 

 

 

退学したその日、電車に乗って帰る間、私は、これからシータヒーラーになるためにはどうするかを、早くも考えていました。

 

 

 

そして、そののち、東京の石坂先生に、アナトミーを受講する予約を入れました。そして、その夏、アナトミーを受講。秋には、病気と障害、ワールドリレーション、そして、最高峰のセミナーDNA3を学びました。

 

 

 

そして、2014年、1月より、本格的に、シータヒーラーとして活動し、元気に飛び回っている、現在の私がいます。

 

 

 

 

 

シータ仲間との出会いと友情、そして気づきから現在へ

 

 

 

アナトミークラスに出席するため、東京へ、はじめて、一人で行きました。

 

不安と希望の入り混じった中、出席した石坂先生のアナトミークラスでは、私を含め、8名の方が出席されておられました。その方々との、一日2回のセッション、それを15日、計30回のセッションをしたり、してもらうことで、私は、自分の人生の土台に気づくことができました。

 

 

 

それは、

 

 

 

人と常に比較することで、頑張れ、成長しようと努力してきたこと、

 

 

 

そして、

 

 

 

友達などいない。本当の友達なんか自分にはできっこない、と思うことで、自分を強くしてきた

 

 

 

と思っていることでした。

 

 

 

そこは、アナトミーセミナーだけでなく、そののちの、病気と障害、ワールドリレーション、DNA3、のセミナーにおけるセッション、セミナーを終えた後での先生のセッションでも、幾度となく、出てきました。

 

 

 

何度も出てくる、その私の土台を、友人や、先生は、必死で、シータヒーリングで、解決してくださいました。

 

 

 

その結果、私は、気づいたんです。

 

 

 

ああ、私は、間違ってたんだって。

 

 

 

ある程度の競争心を持つことは確かに大事だけど、私の持っていた、「人に負けてはいけない。なぜなら、自分がやられることになるから。」という思考、それは、間違いだったな。「私は、人とともに、成功できるし、成長できるんだ。そういう方法で、自分を向上させることも可能なんだな。そっちの方が、幸せになれる」ということに気づくことができました。

 

 

 

また、私、自分が高校時代に起こしたこと、友人を裏切ったことについて、心から反省していなかったことにも気づきました。自分は、もう制裁は受けた。悪いことをしたんだから、その報いは十分受けた。と思っていたんです。そのことで、自分のカルマをつむことを、まだずっと続けていたんだな。だから、それ以降、今まで、ずっと友達が自分にいなかったし、自分で作ろうとも思っていなかったんだな。ということに気づきました。

 

 

 

そして、高校時代の先生に対しても、そんな恨みの気持ちを持っていた自分、それをばねにして、ここまで生きてきた自分を振り返り、その思いから来たやり方を採用していたから、今までの人生が、苦しく、地獄のような人生だったんだ。自分が、そのつらい人生を引きよせていたんだ。ということに、心から、気づくことができました。

 

 

 

そして、新たに、気づきました。

 

 

 

私のセッションをしてくれた人、全員が、そんな過去の私を、一切、責めることはない。シータヒーリングのセッションって、すごいなあ。自分自身で、自分が間違ってたことに気づくことができるんだなあ。

 

 

 

東京のセミナー、そして、石坂先生のセッションを受け、シータヒーリングの仲間に出会い、セッションをしあうことで、どんどん私は、自分の心、過去の出来事を、何一つ隠し立てすることなく、正直に、打ち明けることができるようになっていきました。

 

 

 

先生はじめ、受講生の仲間も、必死で、私をセッションしてくれました。

 

 

 

そして、ついに、私は、本当に、心から、高校時代の友人、先生に、わびることができました。

 

 

 

そして、気づいたんです。

 

 

 

私は、仲間から、受け入れられている。友達といわれる人が、もうできている。

 

自分には、友達ができたんだ!

 

 

 

そして、アナトミーセミナーを終えるころ、私は、ブログやフェイスブックで、東京や千葉、秋田のシータヒーラーさんと、つながり、楽しいコミュニケーションを図れるようになり、さらに、冬にいくつかのセミナーを受けて、また、シータヒーラーさんの友達がたくさんできました。

 

 

 

そして、セミナーを終えた後も、定期的に、先生のセッションを受けることで、気づきました。

 

 

 

ああ、私が友達ができないって、思っていただけなんだ。友達の扉は開かれてた。それに気づかなかった。気づけなかった。思考のブロックがあったために。

 

 

 

ここに気づくのに、わたし、何十年ってかかったんだなあ。

 

 

 

そのことを実感したのが、昨日のことのようです。

 

 

 

場所は、離れていても、いつも私には、心強い友人や先生がいてくださる。共に成長できる仲間がいるんだ。楽しい、頼もしい。

 

 

 

そう思って、毎日楽しく生活できている今の自分がいます。

 

 

 

そして、

 

 

 

私の住む、岡山にもシータヒーリングのこの素晴らしさを広めたい!

 

 

 

私のように、苦しく生きる生き方を選択しなくてもいいんだよ。自分が変わりたい!その思いひとつで、楽に生きれるんだよ。そのお手伝いを、私は、ぜひぜひしたい!

 

 

 

その思いが大きくなってきて、いてもたってもいられず、20141月から、シータヒーラーとして、活動し始め、今、元気に飛び回っている、私がいます。